今日は堂下守三さん(60歳代後半男性)についてお話させて下さい。
細身の紳士。糸の細かい高級そうなジャケットに清潔感のあるクレリックシャツにサスペンダーという「歩くwall街」のような方です。そう、カフスボタンはホワイトゴールドの金庫の形のものでした。時計もフランクミュラーかな。成功者ってこうなんだなぁという印象でした。
堂下さんは「経営者」で、Silicon Valleyで業務拡大する際にご友人と新しい会社を設立しようと思っていて、その会社名やスタッフ確保をどうするかということに関してのご相談でした。“dodger room”という名前はどうかと訊かれたときには、堂下さんのDだと思い、「面白い名前ですねぇ」などと深く考えずにお応えしておりました。「経営者っていうのは、自分の社員に働いてもらい、任せることはまかせて自分ではつねに新しい企画を考えことが鍵なんだ。おれも時間がある時にはここで君のカウンセリングみたいなもの…を利用して何かヒントになるものを探す。欧米ではそうだからね」。
堂下さんは非常に博識で、私なんかでお役に立てるのか…こんな古い事務所で…不安だらけでした。それでも堂下さんは何度も訊ねて下さり、愛車のロールス・ロイス、メルセデス・ベンツ、イギリスのTVRを所有しているが今度はローバーのディフェンダーを購入したいが車庫だけで何十万円になること…事業が上手くいきすぎて心配なこと、日本に生息するゴ●●リ、cockroachの種類と集合フェロモンの仕組み…それはそれは実り多い知識を沢山ご教授いただきました。
興味深かったのは、必ず堂下さんはカウンセリング中に私に持参したクラッシックのピアノのCDを聴くよう依頼されたことです。(今はアップルミュージックとか、YouTubeとかあるんだけどなぁ)と思いましたが、業務の一環だと考えご一緒にポータブルCDプレイヤーで聴かせていただきます。初めて聴く曲に「私のこころの耳」が興奮して踊り出しそうになったり、大嫌いな曲も否応無しに聴かなければならないこともありました。私の興奮が伝わったのか、ドビュッシーの小組曲のCDは堂下さんがプレゼントしてくれました。以来、私の脳は嫌なことがあってもこころにMenuettを流せば大丈夫なほどのお守りになっています。堂下さんに心理士としてどんなお役に立てているのか考えあぐねていたある日のことでした。いつものように明るく話してた堂下さんが突然、しばらく下を向き沈黙したと思ったら泣き崩れてしまいました(かなり長い沈黙だと感じました)。(え、堂下さん‼︎)私はただティッシュを渡すことしか出来ません。「人間というのは…全部嘘なんだ。ウソだけでコ・・ウ(ヒック)セイされてる。この時計もよく出来たニセモノだ。学歴も仕事も嘘をついてきた。君のところは保険証はいらない。オレは東大の受験がない年だったから早稲田に行ったと話した。キミは、いや失礼だな、貴方は、なんでそんなおれに気付いてくれなかったんだ…それとも気付いてたのか」私は心の底から驚き何も言えませんでした。堂下さんは鼻をすすり泣きながら続けます「…人生の失敗者だ。成功してる奴らを怨んでいる。なんで他の奴らみたいになれなかったんだ。envyもある。おれは単なるサラリーマンのイエスマンだ。しかもまた社内…で…左遷されて…窓際族…お祓い箱ってやつだ。君に幸せそうに写った家族写真を見せたこともある…。アレも合成だ。会社の近所の写真屋に今日とは違う偽名で頼んだよ。窓際族はヒマなんだ。経営者もそうかもしれんが…。家ではカミさんからも子どもたちからも相手にされない。飯だっておれの分だけは作ってもらえない。朝はひとりで吉●家で定食を食べてるね、淋しい人間なんだっていうことだ。ここだけが『おれの嘘と夢』を語れる場所だった。それにアンタは仕事だから付き合った。おれは君の時間を買ったということ。それ以上でもそれ以下でもなかろう」。私は言葉に出来なくて黙りこんでしまいました。
オザワノアタマハタダイマコミアッテオリマスモウシバラクオマチクダサイ。
沈黙の後、やっと出て来たひとこと目…明るいトーンで「堂下さん、ドビュッシーの小組曲のMenuettのCD聴きませんか」。堂下さん「小澤さんが気に入って前に上げたやつか」私「はい。どんなに嫌なことがあっても、あの曲のおかげで私は乗り越えられています。堂下さんがどんなお仕事をしているとか、成功者とか…分からない。そういうことより、知らないことを教えていただいたことの方が嬉しかったです」堂下さん「笑ってごまかすな。大事な話をしてるんだぞ。こんな嘘つきは嫌いか」私「ウソを嫌う理由はありません。ただ、心理士として私、お役に立てたのか…」堂下さん「憧れのおれを演じさせてもらう最高の場所だった」私も淋しくなって「…過去形なんですね」堂下さん「また来ても失望しないということか」私「もちろんです。また色々なこと教えてください。さっきウソって堂下さんはおっしゃったけど、TVRだってドビュッシーだって実在します。知らないこといっぱい堂下さんに教わりました。それはウソではありません。ネットで勉強しました。カッコ良い車です。ローバーのクルマ?だって最高な車で泥が似合う高級車で、アフリカに行きたくなりました。私は仕事の時はここにいることしかできません。堂下さんから教えていただいた全てが、ウソも含めて…この部屋から出られない私にとっての堂下さんで」堂下さん「キミも不幸のナカマか。幸せは大丈夫なのか」私「幸せ…っておっしゃいましたか…わかりません。主観的にはoptimistでないことは確か。悶々とどうにもできなかった過去のことをくよくよ考えることも沢山あります。(沈黙後明るく)でも、ドビュッシーがあるじゃないですか!」。堂下さん「誰が笑っていいと言った。それはお前さんが、ドビュッシーの一曲だけで喜ぶ無知な人間なだけだ。知りすぎた不幸の方がはるかに辛い。オマエさんよぉ、ハカセなんだろう。イツワリを生きるメジャーの人間か。そうやっていつも笑って逃げるな。今日の最後にアカデミックに教えろ。おれは病院に行った方がいいのか。ウソつきの『病』を何ていうんだ。いいか。絶対に笑うなよ。今のおれの質問に真面目に答えろ」堂下さんのこんな表情は初めてでした。私はその時の堂下さんを初めて怖いと感じたし、応答にも困りました。カウンセリングにシナリオはありません。私(low voiceで真面目に)「心理士に法的に診断をする資格がないことを初めにお断りさせていただきます。心理士は人を健康的な側面から考えます。ですから、堂下さんを「豊かなfantasyへの没入傾向があり、防衛機制としては合理化や知性化が優位になっている傾向が見られると考えます。また、堂下さんが嘘をつくことによって何らかの利得を得ようということなら、それは「疾病利得」と言って、症状を利用している可能性もあるかもしれません。敢えて堂下さまの症状に名前をつけるのだとしたら…。
堂下さんには、『空想虚言症(pseudologia phantastica)』の傾向があるかもしれません。病院に行く必要性については、嘘をつくことによって堂下さんがご自身で抑うつ気分や不眠症状や抑うつ気分などの二次的な症状が出現してからで私は良いと心理の立場からは考えております」。
堂下さん「ハハハ。オザワハカセさんよ。やっと笑わないで真面目に応えたな。限界か…。もうひとつ確認事項だが心理士の仕事というのはホワイトカラーなのか。それともピンクカラーか」私「…アサギイロワーカーというところでどうですか」堂下さん(やっといつものように)「おれが教えた色を真似しおったな。浅葱色か。今日のところは赦してやる。金を払ってこれからも教えてやろう。少なくとも堂下守三は偽名だ」。
(えっ!)堂下さんは「フランクミューラー『風』」の時計をしっかり見つめ時間丁度に席を立たれました。堂下さんが去った後、空の椅子 empty cheirを片付けながらふと気付きました。
(会社の名前、dodger room…ってドッジボールみたいな名前。あれ、待てよ。dodgeってどういう意味だっけ。辞書を引いた。あっ、ヤラレタ。dodgeは身をかわして逃げるとか巧みにひらりと逃げるというところからきたんだ。堂下さんのDでもアメリカの野球チームでもないんだ‼︎ で守三は守る空間?…room?で、モリゾウか‼︎ヤラレタァァ。あぁ「アサギイロワーカー」まだまだだなぁ。そういえばdodger roomのこと、みなまで言わすなってずっとおっしゃってたなぁ。本名はなんというのだろう…)とドビュッシーのCDの蓋を閉めながら考えていました。堂下さんの高機能についていけない私は「お金をもらって」教えていただいるのですね。
精神療法について、かの有名な中井久夫先生が「娼婦」との類似性を指摘しております。精神療法、心理療法の時は2人で濃密な時間を少なくともその時点では過ごしているからです。
私はいつも目の前にいらっしゃる「たったひとりのクライエントさん」とひたすらに向き合うことを重視しています。
上から目線や病理で考えるような「教育的な」心理士にはなりたくありません。
たとえそれが過剰サービスと言われても…。私の中ではピンクではありません。
長い物語をお読みいただきありがとうございます。堂下さんのますますのご活躍を祈念しております。