こんにちは、西高東低の真っ只中を移動中です。街はクリスマスイベントが増え、忘年会なんかもボチボチと…でしょうか。
今日は「人に任せること」について考えてみたいと思います。
私たちは、意識がクリアな時は自分の意志で多くを計画したり、考えたり、決定することができます。
しかし、急な事故に遭ったり、解離性障害で時間や人格のコントロールがうまくいかない時、手術を受ける時、認知症などになり止むを得ず誰かに身を任せざるを得ないこともあります。医療の場面で予定が組まれていれば、ある程度の予測は可能なこともあります。しかし、無意識に人格が出現して自分がコントロールされたり、急な手術で麻酔をされる場面を想像してみて下さい。
その時は否が応でも他の人格だったり、医療者に身を任せざるを得ないことがあるかもしれません。でも、私たちは生まれた時から他者に身を委ねざるを得ない体験をしているのです。他の動物と異なり、ヒトには子宮外胎児期があります。約一年でしょうか。その時期は養育者なしに生きていけません。
よくカウンセリングの場面で語られることがあります。「頼んで生まてきたんじゃないのに」「気付いたらこんな自分になってたし」「全部がイヤ」「両親なんて大っ嫌い」…。
私はおっしゃる通りだと思います。カウンセラーとしてその意味を二人の世界で共有していきます。しかし、二人の世界自体って実はとても怖いものなのです。カウンセラーとクライエントは恋人同士ではないし、親子でもない。友達でもありません。親や友達への相談はコストフリーです。私はクライエントさんから料金をいただきカウンセリングを行います。“オイ、センモンカトシテナニガデキルンダヨ?”
健康度の高い時は新聞に目を通したり、デパートに行ったり、友人との約束や趣味や毎日の決まりやお仕事などの日常に没頭されていらっしゃるのでしょう。そして、心の中で(私はみんなと違うかもしれない…)ということは置いておくことが出来ることかもしれません。でも、果たしてそれが本当に健康?と思うこともあります。自分の内面とひたすら向き合うことで見えてくることもあります。それもまたこころの健康のひとつなのではないでしょうか。
私たち心理士は1日に何人ものカウンセリングを行わなくてななりません。時間が来ればスイッチを切り替えて次の方の世界に真摯に向き合わなければならない業務です。燃費が悪い私は、1日が終わった時にはクタクタでヨレヨレになることもしばしばあります。
同業の友人は「クライエントさんの世界に入りすぎるからそんなにヨレヨレになるんだよ」「もっと客観的になりなよ。仕事なんだから割り切り割り切り」と言われることもあるし、クライエントさんからは「あーカウンセリングに来ると疲れてぐったりするよ」というお言葉をいただくこともあります。
今日のテーマに戻らなきゃ!そう。私は麻酔をされたり、酒に酔って誰かの前で自分を失うことに対してとても怖いことがあります。だからお酒は飲まないのです。全く飲めないのではないと思います。意識を失って失態する自分が怖いのです。以前、手術を受けたことがあるのですが、医師に部分麻酔を懇願し、「痛くて動いたら強制的に全身麻酔だからね」と告げられ「もう一度お伝えしますが、部分麻酔でのオペはこれまで2例しかないですよ」「本当に痛いですよ」と言われましたが、それでも無理を言って部分麻酔を選択しました。
実際に医療機関で勤めていると、病気によって自傷行為や他者に暴力的になり、止むを得ず、医師から鎮静薬や薬を投薬され、先程までとは別人のように鎮静されてドロンとするみたいになる場面にも遭遇します。ますます私は注射やお医者さん、それを医師の指示の下行う看護師さんを怖いと感じることもあります。私は心理士です。投薬は出来ません。(お願いです。止めて!これ以上押さえつけないで。優しくしてください)と思うこともあります。医療者はメディカリーに危険を守る義務があります。でも、私の仕事は「安心という鎮静」「こころをholdingすること」でクライエントさんのこころの手綱が緩み別人格と接触できたり、その方のより深い世界と向き合えるのかも知れません。また、医師がやむを得ない事情(自傷や他害のハイリスク)で注射や投薬の指示を出され、その方が脱抑制(気持ちの手綱が緩んだ状態)の中にある時に、近くにいさせていただき毛布をかけることしかできなくても、その方に何かのこころの安心を提供出来るかもしれません。当たり前かもしれないけど、こころを温かくしておくことはとても大事なことだと思います。
もうひとつ、その方の個別性を知ることの重要性も感じます。例えば、認知症という疾患は、意識の問題ではなく加齢などの要因によって認知機能が不可逆的に低下した状態になります。解離性障害の方に別人格が出現することも、何らかの意味があるのだと思います。いずれにせよ、その方の元々のこころや生活パターン、生育歴や家族歴を知っていることは非常に重要なことです。徘徊や別人格という用語で片付けることは簡単です。しかし、徘徊ではなく認知症の方がいつどこをどのように歩いているか…何を見ているのかなどからその方の生活の歴史や思い出が見えてくることもあるのです。一緒に思い出の旅の一部を共有させていただけましたら幸いです。改めて“Unique One”ですね…。カウンセリングは1対1の世界です。だからこそ、クライエントさんに与える侵襲が高くなることもあることも忘れてはなりません。手術の場面では麻酔科の医師が全身状態をコントロールして、呼吸状態や意識レベルを確認した頃合いに執刀医が入室することもあります。麻酔科医師は患者様の頭上からたくさんモニターを管理して無意識下の患者様の手術中の生命活動を預かります。そして…精神分析の自由連想法において、被分析者(分析を受ける方)は精神分析家のカウチの頭もとにひっそりと座ってトロンとしたまどろみの中にある被分析者の深い語りを分析しています。それって麻酔科医とそっくりではありませんか。私は、精神分析家に憧れて大学院に入りました。憧れのO教授の授業を受けたかったのです。教授は日本でも少ない精神分析家です。しかしある日、O教授から「小澤は分析家に一番向いていない」と言われました。今になってようやく少し意味が理解出来ました。私にはシステマティックに人を分析する冷静さに欠けてクライエントさんの気持ちが私に乗り移ったようになってしまうところが往々にしてあるのです。それは分析ではありません。
精神分析の勉強はこれからも一生をかけて続けていきたいです。こころの麻酔科?はカッコいいし、今でも精神分析家になりたい気持ちはいっぱい、憧れの存在です。でも好きなことと自分の能力は残念ながら比例しないことも多いのです…。私は、クライエントさんの世界の旅路にスコップやティッシュを持って同行させていただき、ほんの少しの心の世界の一部やひとときをおすそ分けいただき、出来ることは少ないですが、こころの土砂崩れや大荒れが起こった時に、精一杯のその場をやり過ごす・乗り越える対策を一緒に考えさせていただいております。
一生懸命に取り組んでも失敗してしまうこともあります。もっときちんと専門的に指示してくださいよとご指摘いただくこともあります。逆に私が一生懸命過ぎて怖いと言われたこともあります。カウンセリングが終わってもひとりで悶々と考え続けていることもあります。クライエントさんにとって、「心の世界を他者に見せることは怖いこと・恥ずかしくて勇気もいること」「こころを許せるかわからないカウンセラーにカウンセリングを受ける怖さ」というクライエントさんの意識をこれからも忘れずにほんの少しのこころの応急手当てが出来るような心理士を真っ直ぐに目指し続けていきたいと考えました。
師走はイベントだらけで、あるいはイベントが無さすぎることでもこころにも身体にも大きな負担がかかる時期です。どうぞご自愛下さい。
東京は青空!長文をお読みいただきありがとうございます。