恥ずかしさって何だろう

こんにちは、すっかり秋真っ盛りですね。柿やブドウも美味しい季節になりました。

今日は「恥ずかしさ」について考えてみたいと思います。

先日近所を歩いていたらほんわりと銀杏の匂いがしました。銀杏の香りを嗅いだ途端、恥ずかしい感覚が襲ってきて自分が銀杏の匂いを発しているのか!と思ったのです。私にとって銀杏の匂いは恋人と歩いている時には出来れば嗅ぎたくない香りです。その後(あぁもうそんな季節なんだ)と思いました…。そっか秋だなぁと。

キンモクセイの香りを嗅ぐと大切な人が亡くなった記憶が一瞬にして全身に入り込んで来ます。誰もいない時にキンモクセイの香りが漂ってきた途端にはひっそり落涙することもあります。

嗅覚野は扁桃体や海馬など記憶や好き嫌いを司るところの近くにあるので様々な感情や記憶と結びつきやすいのです。

もう何年も前の話です。病院の清掃員の方が病院中の銀杏を拾ってバケツに入れて、それを手袋で丁寧に洗っている姿を見ました。その清掃員の方は誰とも話さない?いや話せない方でした。黙々とピカピカに清掃をした後はホコリひとつありません。話しかけられるのが嫌いだと分かっていたので、彼女に会っても挨拶も会釈だけにしていました。洗った銀杏は彼女が召し上がるのかと思っていました。しかし、それは違いました。ある日、病院のバザーに小分けに袋詰めされた銀杏が売られていました。彼女はみんなのために病院中の銀杏を…手袋をはめてあの匂いを取り除いてバザーに出していたのです。自分勝手な解釈に対して反省しました。

もうひとつの恥ずかしさは私の耳にあります。特定の音やメロディラインや楽器を聴くと逃げ出したくなるほどの恥ずかしさが襲って来るのです。ピアノの先生に頼んで原典版の幻想即興曲を弾いていただいたのですが、ジャラララーン、ブルルーンっていう左手のパッセージを聴いた時には恥ずかしくてどうにかなってしまいそうです。その先生全体が恥ずかしい存在になってしまいそうです。ジャラララーン先生!

それは、上手に表現出来ないけど…恐らく通常の感覚を逸していると思います。その感覚のせいで、ひとつの曲を最後まで聴けない、聴きたくないくらい恥ずかしくなることがあります。恥ずかしさの性質としては、詐欺師の手口を見てしまった時のような感覚かな。うーん違う。アフロの方にいきなりカツラを脱がれた時の感覚かなぁ。あるいは、一生懸命過ぎるほど自分を前面に出して売り出そうとする人の痛々しいけなげさを見てしまったような感覚にも似ているかもしれません。

色々な恥ずかしさってあるんですね。多くの方が感じる恥ずかしさと私の恥ずかしさはどうやら違うみたいです。恥ずかしい感覚が不意に襲ってくると、自律神経は嘘をつけないから赤面してしまいます。学生時代に教授と何気ない会話をしている時に急に恥ずかしさが襲って来て顔が真っ赤になってしまったことがあります。確か…教授の引き出しから期限切れの温泉まんじゅうが見えてしまった時だったでしょうか。「あなた、急にどうしたのですか?顔が真っ赤ですよ!」赤面しながら「なんでもありません」とやっとの思いで言いました。その時の恥ずかしさは視覚から入ってきました。

ある時ご年配の方にいただき物でゼリーをいただきました。「ジェロだから冷やしてね」と言われた時にもびっくり→赤面コースです。(え、ジェロって?)

銀杏の香りから恥ずかしさを。言葉や態度で恥ずかしさを。知性の裏に隠された恥ずかしさを。音の響きから恥ずかしさを…。恥ずかしい感覚からは逃げたいけど逃げられないこともあります。五感で恥ずかしさを体感できるって考え方次第ではラッキーなのかもしれません。

誰にも言えない、たったひとつの恥ずかしさをやっとの想いでクライエントさんが話してくれる勇気に深謝の気持ちでいっぱいです。

どんな不思議な恥ずかしい気持ちも大切にできるカウンセラーでいたいです。対話の中の美辞麗句だけでは表層しかその方を理解できないことっていかに多いことでしょうか…。怒りや恥ずかしさや愚痴や妬みや悔しさや淋しさなどはラポールが形成されて初めて表現出来るのではないでしょうか。

恥ずかしさの中にはこころの秘密やお宝や、ある種のfetishismが隠されている可能性もあります。恥の概念を探求することをこれからも大切にしていきたいです。

もうすぐ銀杏が美味しく紅葉真っ盛りですね!日暮れが淋しい今日この頃です。

みなさまとの“Unique One”の時間を大切に紡いでいきたいと常に考えております。お読みいただきありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Miracle or Tragectory

こんにちは、すっかり秋めいて参りました。収穫の秋、芸術の秋、食欲の秋ですね。日の入りも早まって参りました。今年は豪雨や地震なども多く、被災されたみなさまには心よりお見舞い申し上げます。

今日は「きせき」について考えてみたいと思います。

みなさんは「きせき」と音のいう響きから…直感で「奇跡」を思い浮かべるでしょうか?或いは「軌跡」でしょうか。私は断然後者を意識します。今こうしてブログを書いているこの瞬間から「過去」になります。「今仕事中なの」と言ったその瞬間から既にさっきという過去となっているのです。

時に私たちは、深刻なライフイベントに遭遇することがあります。(稀にこころの苦痛を感じない、そのようなことに遭遇してない幸せな方もいらっしゃるかもしれません…)

時に私たちは、考え抜いても思い通りに出来ない出来事、苦しい選択を迫られたり、突然大切な方やペットとのお別れを経験するかもしれません。仕事で挫折を味わったり、転職や引っ越しを余儀なくされることもあるかもしれません。

予期せぬ結果に悩むことがあるかもしれません。信じている大切な方に裏切られることがあるかもしれません。知らない間に誰かをチクチク言葉で傷付けてしまったり、誰にも言えずにチクチク言葉や自分の主張を出来ずに落ち込んだり、それが一気に爆発してしまうこともあるかもしれません。そんな自分に落ち込んでしまったりすることもあるかもしれません。

辛い出来事に遭遇すると、回避出来ずにぐるぐるループに陥ることがあります。辛い出来事を解決しようとしすぎてクタクタになることもあるかもしれません。

そんな時、ご自身を責めてしまう傾向にある方、他者や環境のせいや運命の仕業と考えられる方、まるで辛かったことなんてなかったかのように回避する方…人やその事象の深刻さによって、これらの半ば無意識的な対処を無意識のうちに使い分けて人は何とか適応しています。

ミラクルは起こるかもしれません。ハイアーパワーだってあるかもしれません。人生ってわからないものです。

私は、人生で他者に助言はもらったとしても、助言はあくまでも助言、自己決定権はクライエントさんの中にあると考えています。それが「ただひとつの」軌跡になると考えるからです。過去を変えることは出来なくてもその意味を少し異なる視点から俯瞰することによってその過去の奥深さや自由になれていない自己に気付くことができます。

ですから、私はクライエントさんに助言はすることがあったとしても、最後のこたえはクライエントさんの中にあると信じてカウンセリングを行っています。私から言われた言葉や指示によって、クライエントさんのこれからの軌跡の邪魔や脱線をしてはいけないと考えています。同様に「大丈夫ですよ」など安易な言葉も用いないように気をつけています。

軌跡は「ただひとつの」宝ものでもあるし、時には(あの時こうしていたら)と心に大きな重荷としてのし掛かることもあるかもしれません。私は、クライエントさんを指示ではなく、支持することを大切にしています。ライナスの毛布のようなカウンセラーになりたい。

もし、カウンセラーから指導や指示を望まれるクライエントさんなら、私とのカウンセリングに不満や物足りなさを感じるかもしれません。

カウンセラーからの自己開示はいけないことというのが私達専門家の教科書のルールです。しかし、カウンセラーからも必要に応じて「過不足なく」自己開示することも時には必要なことだと私は考えています。時々自己開示の度を超えてしまうことは私にとって反省点と課題です。

私は、カウンセラー側の防衛が強ければ、クライエントさんと真の交流は出来ないと考えるのです。どのようなクライエントさんであっても、他人事のようにくっきりと線引きして接することは今の私にはできません。ただひとつのセッションに私なりの全力を尽くすことしか出来ないかも知れません。

誰かに、何かを指摘してもらうことや安易な慰めをしてもらうことで楽になることもあるしれません。しかし、私はクライエントさんの自己決定を一番に信じ、自己決定が出来ずに悩まれている際には一時的に「心の松葉杖」のような役割を果たせるのならそれを惜しむこともいたしません。

“We trust our judgement.”となることが出来れば、結果がどうであれ誰かのせいにすることは少なくなるでしょう。私たちはプロセスを振り返ったときに(あの時、ああしていれば…)と思うことはあるかも知れません。しかし、刹那のプロセスを紡いで今に至ったことにはとても重要な意味があるのだと秋の夜長に考えています。

今日は月が綺麗でした。お彼岸も迎え、夜に外に出るとすっかり秋の虫の声が聴こえる時期になりました。扉を開けて、ただひとりのクライエントさんとお会いし、その方のこころの物語やお悩みや嬉しいご報告をお聴きできることは私にとって心から幸せなことなのです。

季節の変わり目で、今年はインフルエンザの流行も早まっているそうです。みなさま、どうぞご自愛ください。

お読みいただきありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

頑張ってるわね♫ふふふ


こんにちは。暑い日が続きますね。それでも日が沈むのが若干早まった気がして‥秋を…冬を…憂えている私もいます。お盆なので帰省されていらっしゃる方も多いと思います。みなさまにとって忘れられないたったひとつの夏になりますように!

今日は「頑張ってるね」という言葉について考えてみたいと思います。

先日同期の方と勉強会で久しぶりにお会いしました。私は東京と北陸の往復でとっても惨めな格好をしていました。ノーメイク、リュックサックにデニム、足元はスニーカーという出で立ちです。

同期の方は在学中からいつも綺麗に上品に礼容が整っています。所作も話し方も美しいのです。いつも貴婦人なのです。

私が博士課程に進んだ時には「本当に頑張るのねぇ(フフフ)」と彼女は言ってくれました…。

先日お会いしても「相変わらず頑張り屋さんね(ふふふ)」と彼女は言ってくれました。

でも…私は…誰よりも努力と頑張ることが苦手で不得手で嫌いなのです。何かを覚える時にはみんなの何倍もかかります。でもやらなくてはならないことばかり!出来なかったこともたくさん!キャー!

彼女に「いつも頑張ってるのねぇ」と言ってもらった後にふと考えたのです。

クライエントさんに「頑張ってますね」「努力家なのですね」と私は言ったことがないだろうか…。そして何故彼女から「頑張ってるわね」と言われてなんとなく…シュンとした気持ちになってしまったのかについて色々考えさせていただきました。

私は彼女に「頑張ってるわね」って言われた時、同じ立場なはずなのになんだか少し上から見られたような、少し淋しい気持ちになったのかな…。それともふふふっていう笑みにそう思ったのかな…わかりません。

私は頑張っているのではなくて、頑張る力がないこと、みんなより覚えも悪いから無我夢中で余裕がないから工夫しなくてはならないことにも気付かせていただきました。

そういえば「努力をする才能がない。努力ができれば伸びるはず」と高校の調査書にも書いてありました。

毎日に必死です。頑張れない自分が嫌いです。一方で頑張れない自分も認めています。だからクライエントさんにも「頑張りやさんですね」とは言えません。ふふふとも笑みをうかべることはできません。ごめんなさい。頑張れてるかどうかはクライエントさん自身が一番知っていることでしょう。頑張れない自分が大嫌いなことも同じだと思うのです…。

だから、そういうことを言わないように態度に出さないよう心がけたいと改めて考えました。時に人はボロボロでも、頑張れなくても、無我夢中でも、気力がない時があっても良いのではないかと私は思います。

ふむふむ…と今のご自身をただただ感じることには、沢山の大切なことが含まれているのではないでしょうか。

こんな私ですが、カウンセリングではクライエントさんとの “Unique One”ただひとつの関係を大切にすることに「頑張る」のではなく「一生懸命」に没頭するよう努めて参りたい所存でございます。なんでもいいから愚痴を言いたい!悔しくてたまらなかった!嬉しくてヤッホー!どんな時でもみなさまをお待ちしております。

私はひとのこころが大好きです。私は人も大好きです。だからカウンセラーになりました。この仕事が大好きです。この仕事をこれからも一生懸命に精進したいと思います。

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最近お問い合わせを多くいただいております。多忙でご予約をお取りできずにご迷惑をおかけしております。お待たせしてしまうことに申し訳ない気持ちででいっぱいです。なるべく速やかにご案内できるように工夫して参ります。

これからも何卒よろしくお願い申し上げます。暑い日が続きます。どうぞご自愛下さい。お読みいただきありがとうございます。

 

 

 

 

 

Soil of the hole and self -healing 穴倉で自分を治す力

みなさまこんにちは☆今年は猛暑を通り越して極暑でございます。本当に暑い日が続きます。どうぞ、熱中症対策は十分なさってください。今日は徒然なるままに雑記を書いてみました。乱文ですがお読みいただけましたら幸いです。

チャロのこと

子ども時代、私にとってトモダチの犬がいた。犬小屋に名前はなかった。私は勝手にチャロと彼を名付けた。

いつのことだろう…そうだ。小学生のころだ。私が学校から帰りに通る道にチャロはいた。私が挨拶すると、彼は金属の鎖をカシャカシャと張り詰めて飛び出してくる。尻尾を振って私の顔をクシャクシャになるほどに舐め回す。しばらくチャロと遊ぶことは私にとって大きな楽しみと慰めだった。チャロは芝犬がかった中位の大きさの雑種犬だった。ある日チャロは黙って私を見たまま縁側の下から顔だけ覗かせ私を見たがすぐ俯き、そのまま穴で眠りに戻った。どうしたのかと思い近くに寄ってみた。チャロは下半身に怪我を負っていた。縁側の下には以前から自分で掘ってあった穴に埋まっている。穴の中にお尻から下をすっぽり埋め込んでいた。

彼はずっと眠り続けていてこのまま死んでしまうのではないかと思った。毎日学校帰りに見に行った。片耳がやや垂れた彼はその後しばらく縁側の下の穴倉でじっと動かない生活が続いた。真っ暗な穴倉の中で飼い主が置いた水も飲まず、ご飯にも手もつけずただたじっとうずくまって寝ていた。私は次第にチャロが怖くなり会いたくなくなった。その後はもっと怖くなり通学路を迂回した。10日ほどたっただろうか。私の頭はチャロのことでいっぱいになり、とうとう彼の所に行ってみた。下半身に褥瘡が出来た真っ赤な生ハムみたいな皮膚をむき出した泥だらけのチャロが以前のようにヨロヨロと尻尾を振って穴倉から出てきた。私の顔もそっと舐めてくれた。酷い姿だった。チャロは私にとってはトモダチだった。チャロは人間のように鏡を見て自分の毛がないことを恥じることを知らない。犬の被毛は私達の恥の感情より生きていく上でもっと重要な役割を担っている。今でもチャロがその後泥とウジ虫だらけになって穴から出て尻尾を振ってくれたことを鮮明に思い出す。彼がうずくまっていた穴倉を覗くと大量の抜け毛とウジ虫でいっぱいだった。酷い臭いがした。固まった血痕に絡みついて束のように抜け落ちた毛。穴倉はチャロの毛で出来たベッドのようだった。彼の下半身には大量にウジ虫と土が付いていた。ウジ虫は気持ちの良いものではない。恐る恐る彼についたウジ虫を葉っぱと枝で取り除いてみた。その後もしばらくウジ虫はチャロの身体を食べていた。その度にウジ虫を葉っぱで取り除くことしか小学生の私には術がなかった。それからしばらくしてチャロは穴倉に入らず日光に当たりながら寝るようになった。しばらくすると、生ハムとチーズが混じった色のような皮膚から少しずつ毛が生え出した。ウジ虫もいなくなった。穴倉でチャロは自分で自分を治していた。「自己治癒」をしていたのだ。穴倉は暗い。風も通らない。しかし、土と穴倉には治癒の力がある。チャロは土に潜り、愛想の良さもしまい、食事もとらずエネルギー消費量を最低限にすることで生き延びる術を持っていた。穴倉の持つ力は大きい。冬は暖かく夏は冷たい。私達は陽光と風通しの良さを大切にすることすることが健康や運気にとって大切なことを教育される。しかし、私は幼少時に会ったチャロを思い出し考えることがある。陽光や風通しと同じ程度に、時に風が抜けないヒンヤリとした穴倉や暗闇の力も必要なのではないかと。逃げ場のない穴倉で誰かと身を潜めたなら、協力し合わなければ誰かが犠牲になる。ひとりきりの穴倉なら自分しか知らないことと向き合うため、自分のこころや身体を癒すにために絶好の場所になる可能性がある。人のこころも同じだ。いつも風通しが良く、日が当たるところにいることで疲弊することもある。陽当たりも風通しも良いところにしか住まったことのない人々、暗闇や穴倉を知らない人々は穴倉のことを病んでいる、病気の巣窟だという。陽光や風通しは重要だ。しかし、穴倉で時に休むこと、そこに温かい誰かがいるなら、時に陽光と風通しの良い部屋より穴倉が圧倒的にこころの健康に繋がることもあると私は考える。

私は時には穴倉生活での自己治癒の力も大切にしたい。暑過ぎる夏にあの日過ごしたチャロとのことを思い出しながら考えた。

お読みいただきありがとうございます。チャロのように自分で自分を治す力を持ちたいと願って…☆

 

こころのPhantom Painと適応的退行

こんにちは。この度の大雨、みなさまにおかれましては被害など遭われていらっしゃいませんでしょうか。本当に大変な豪雨でした…。どうか、これ以上の被害がでませんように…。

今日は”phantom pain”幻肢痛について心理学的に考えてみたいと思います。幻肢痛とは切断されたはずの手や足の痛みが脳を通じて襲ってくる痛みのことです。治療は難しく、特定の切断された部位が我慢出来ないほどの痛みや痒みとなって自覚されるため、それはとても辛いです。脳神経が失った手足を受け入れられない、更新出来ないことで生じます。

私たちのこころは何処にあるのでしょう。子どもにこころはどこにあると問うと、多くの子どもは胸に手を当てます。大人にこころはどこにあると問うと戸惑われる方が多いです。こころは複雑です。難しい脳科学や脳地図とかのことは置いておいて…身体全体がこころだと考えています。

視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚、その程度や感度の差はMRIや心理検査などで測ることが出来ても限界があります。その全体を正確に自己で把握することはもちろん、他者に伝えることは出来ません。

脳への入力と出力がいかに複雑な仕組みで出来ているのかよく考えます。その複雑な仕組みが悩みとなって噴出したのなら、その全部は無理でも言語や非言語を通じてある程度は他者と共有できる部分も多くあります。そこに必要なことは基本的な信頼と時間です。専門家でなくて良いのです。近くの誰か、家族、友人、学校の先生、会社の同僚や上司など身近な相談者が沢山いることが望ましいと思います。

さらにいうと、自分の中で「自分を慰めるスキル」を獲得することは一番有効かもしれません。自分を一番よく知っているのは自分です。

Kris.Eは「自我による自我のための適応的な退行」という概念を提唱しました。私たちのこころは、快楽原則に従うes(id)と〜すべきであるというsuper ego それらを調整する役を担うegoという領域からなるとはS.Freudが心的装置理論として説明しました。

egoは大変なのです!

私たちのegoはesとsuper egoの調整に疲れてしまうことがあります。そんな時「適応的に退行出来ること」は自分を慰めることにもつながるのではないでしょうか。

適応的退行を推進いたします!

以下、私の経験になりますので、ご興味のない方はスキップしてください。

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小学校2年生のころでした。当時5年生だった同じ小学校の方が病気で亡くなりました。5年生の方とは面識はありませんでした。そのことを告げられた私は、死というものがとても怖くて受け入れることができませんでした。

それからまもなく、朝礼があり、亡くなった方のご両親が「息子が大好きな曲だったので是非」とレコードを学校に寄付されました。校長先生は「いただいた曲を下校時に流すことにします」と言い、毎日下校時になるとその曲がかかります。その曲はバッハの小フーガト短調でした。その曲は本当に私を虜にしてくれました。学校が早く終わってもその曲をひとり校庭で聴いてから帰りました。特に曲の終わりが好きでした。当時はピカルディ終止とか分からなくて、フランダースの犬のネロとパトラッシュが最期にルーベンスの絵を見たようなそんな気持ちになりました。

私は子ども時代から実存的な不安を感じて生きてきました。子ども時代は何となく不安なだけでした。今は、そのなんとも言えないぼんやりとした不安と共存しながら生きていると思います。

これらの不安は時に生きるための糧として働きます。一方で、これまで体験した様々な感情や辛さが時間を超えてありありとこころのphantom painとしてシクシクと痛みが湧くこと、悪夢の中に現れることもあります。今はそれらの痛みを感じることができることもまた乙なものだと考えています。よくも悪くも過去は甘美で切なく夢や空想に現れます。しかし、現実は、たった今のことや少し先のことを探さなければなりません。仕事や学校や実際の時間などは待ってくれません。そんな中、今という現実の時間軸に戻ることができるという前提で、時にこころの時間を使って、過去の自分を旅して大好きな音楽を聴いたり、思い出にありありと自己を投入することに没頭することは、私にとってまさに適応的な退行のひとつなのです。

明日からは真夏日になるようです。脱水などにならないようご自愛ください。

YouTubeの小フーガト短調のリンクを貼らせていただきます。旋律は心細く生まれて、和音との出会いと別れがあり、みんなに守られ続けていたいのに、旋律は独りぽっちで独力です。時に力を借りながらギリギリを生き抜いています。不安を持ちながらも、ハーモニーに守ってもらいます。不協和音に追い付かれそうなのに旋律は転調しながら逃げ切ります。最後はこよりのように統合され、刹那にもがきながら昇華していく…この曲が人生そのものという感じがして、私は大好きです。

お読みいただきありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

褒め上手 quartetto 🎵

こんにちは、肌寒いのか蒸し蒸しなのかお洋服選びに困る日が続きますね!

私ごとですが、先日アコーディオンの発表会がありました。

最近とても忙しいので練習をする時間がないのですが、初めてソロの曲で出場させていただきました。もう一曲はquartettoで3曲のメドレーでした。

ひとりの曲は下手でもいい!四重奏だけは失敗したくない!他のメンバーに迷惑をかけたくないと曇り空の下でこっそり練習していました。

はっきり言ってソロはお恥ずかしい限りのボロボロ演奏。自業自得です。カルテットは…頑張りました。みんなから良かったって言っていただきました。

チームや仲間がいると頑張らなくては、迷惑をかけてはいけない、みんなでひとつって思うのです。その一方でソロとなると、完全に自分のことだけになるので、他者に迷惑がかからないので良いかなとサボり気味になってしまいます。

私が音楽を欲する時はこころのお腹が空いている時です。

ピアノもアコーディオンも先生に習っているのですが、レッスンというのはカウンセリングと似ている気がします。

昨日の発表会の時、アコーディオンの先生の動きを見ていました。先生は朝の9時からひとりずつのリハーサルを客席から聴きながら、ひとりひとりの生徒さんに合わせてまるで「自分が舞台に立つ」かのように真剣にアドバイスをし、本番直前には楽屋でひとりずつ緊張緩和用にブドウ糖を配りながら、「ゆっくり!楽しく!」とお声がけしてくれます。

どなたかからお褒めのアンケートをいただきました

失敗しても「小澤さんのウタゴコロが伝わった!すっごく良かったよ!」。発表会は夕方まで続きます。最後は生徒から先生にお花をお渡しし、先生からのひと言の時に「今日は私の生徒、いや、もう友人のような存在かな!みんな上手くなりました。本当に嬉しいです」と目に涙を浮かべながら「また、よろしければみなさんをお誘いの上お越しください。会場にお越しのみなさまにもありがとうの気持ちでいっぱいです」とおっしゃいました。

先生は言うまでもなく誰からもとっても人気者です。新しい生徒さんはもう入れないほどです。先生の他者を慮る能力の高さ、励ましの力、謙虚さ、人に合わせた教え方の工夫の仕方…etc.

音楽だけでなく私の個性をも含めて本当に大切にしてもらっていると感じることが出来ました。

それこそが何かを教えることの極みなのかもしれません。わたしは心理士ですが、先生のようにクライエントのみなさまに温かい何かを提供出来る「ひとが大好き、こころ大好き」でありたいなぁとこころから思いました。私の仕事では発表会はありませんが、お逢いしたみなさまを想いながらひとり脳内発表会します。

みなさまのココロにバンザイ!みなさまの「ただひとつの“unique one”」の人生にバンザイです!

お読みいただきありがとうございます。

 

 

 

 

 

ただここにいられる幸せ

私は時々不思議な感覚に陥ります。

私はいつもの部屋に座っています。ぽつんとひとり。みなさまをお待ちしながら。

ここには去年彼が座っていました。昨日は彼女が座っていました。おととしは彼らとここに一緒にいました。

おとといは彼とここで一緒に涙を流しました。

私はただ、ここに座ってたった今彼女と一緒にこころの世界の旅に出ます。

ひとりぽつんとここにいるだけ。

旅のない日は旅の思い出を考えて涙したり、笑ったり、怒ったり。

まるで誰かがお見舞いに来てくれているかのような気持ちになることがあります。

私は専門家でしょう?こころの療法をするのでしょう?

でも、その前にまずは一緒にこころの旅をしたい。

「私ね」「僕ね」「俺ってさ」「実はね」「誰にもいわないでね」…。

私はただここにいるだけ?いいえ。誰にも内緒のこころの旅をさせていただきました。

何処かに行きたい?

いいえ。わたしは、目をつむれば去年の彼と、5年前の彼女と、昨日の彼と一緒に何処にでも行けます。明日の旅を楽しみにすることもできます。

明日にはもしかしたらまた新しい出会いがあるかもしれません。

来年には一昨年の彼女とまた会えるかもしれません。

私はただここにいるだけ。なにも持たずにここでみんなを待っているだけ。

こころを治すってどんなこと?専門家の言うことをきくこと?

いいえ。どんなことでもお話したり、誰かとひととき一緒にいられること。

私はどんなことでも人を決めつけない透明なこころで受け入れられること。

私がいちばん苦しいのは、お金をいただくこと。

お金がなければここの部屋がなくなってしまうから。

時間になったらさようならをしなければならない。

また次の彼女とこころの旅に出るから。

どんなに待っても会えない人もいます。私を大嫌いな人もたくさんいます。

ぽつんとひとり会いたい人を考えることってどんなに楽しいことでしょう。

ぽつんとひとり会えない人を思うことってどんなに切ないことでしょう。

私はどんな道具も持たずにここにいることのできることに幸せを感じます。

私はひとのこころが大好きです。

会えなくなった彼が幸せでありますように!

結婚した彼女が末永く幸せでいられるように!

ひとりでも多くの方が笑顔で過ごせますように!

お読みいただきありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

早起きの友人のこと

こんにちは、梅雨の時期まで数週間くらいでしょうか。湿気が多くてジメジメするこの時期は鬱陶しいことも多いのですが、梅雨入り前の貴重な晴れた日は私にとって最も好きな日です。

先日、友人がとても素敵なことをポロリ。私「今日何時に家を出たの」友人「今日は7:30分だよ」私「えーっ!定時より全然早いじゃん」友人は意外そうな顔で続けます「え、いつも早く出るけど。余裕もって」私「私はいつもギリギリっていうか遅刻寸前までスイッチ入らない」友人「色々なタイプに人がいるから…」私「羨ましいなぁ早起きは苦手でさ」友人「今ね、紫の花がきれいでね…名前とかも知らない花なんだけど。それをおじいさん達が一生懸命に手入れしてるときのほのぼのシーンが見れるんだ。それが何とも癒されるんだよね」

上手に表現できないけど、友人がポツリと言ったひと言にとってもココロを動かされました。

友人のように早起きしたいから?いや…そのような気持ちが私の何処かにあるのに眠っていたことを感じさせてくれたから?いやいやそれは彼女との会話の中から「私も」よくわからない紫の花とその花を和気藹々と愛でるおじいさん達の姿とそれを眺めるほのぼのした姿が「私なり」に伝わってきて何だかこころがほっとしたかたからかもしれません。

誰かの気持ちを動かす言葉かもしれない言葉を彼女は何の気なしに話したのだと思います。友人に「良い話だなぁ」と伝えたところキョトンとして「そんなに良い話かな?変なの 笑」

誰かを温かい気持ちにしてくれる言葉や態度はその場の取り繕いや偽りで発せることではありません。

職業柄どうしても見えてしまうかもしれない自分の役を降りて、アセスメントなんかしないで、他者からの評価も気にせず、好きに感じるままに過ごす日も大切にしています。

アコーディオン仲間との楽しいひとときだったり、音痴でも大きい声で楽しく歌ったり、近隣のクリニックの同業者の方との心和むオフ会だったり…。本当にそんな時は役から降りて自由になることができます。

友人からは「仕事中毒」なんて言われることもあるけれど…。効率が人と比べて非常に悪いので何をするのにも時間を有効に使えないのです。

でも、私が実際に体験出来ないこころの世界を友人やクライエントさんに誘っていただけることは辛いこともあるけど、それ以上に私にとって、何にも代えられない大切なこころの財産なのです。

素敵なお話、悲しいお話、我慢できないほど辛いこと、誰にも言えないけど言いたいことなどありましたら、是非お話を聴かせていただけましたら幸いです。

気温差も湿度変化も激しく体調を壊しやすい時期です。どうぞご自愛ください。お読みいただきありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

ストレス対処法のあれこれ

こんにちは、あっという間に連休も終わり、新宿の街はすっかりお仕事モードにな りました。連休やお盆お正月は色々こころが騒めくとみなさまからお聴きします。緑も大分色濃くなってきました。風にそよぐ木々にありがとうという気持ちになります。

 

私達は日々のストレスをどのように消化しているのかな…とぼんやり考えていました。あるクライエントさんはお風呂に浮き、別の方はお風呂で歌い、別の方は友人と呑み、また別の方はひとりのんびりと本を読み、私は美味しいものを食べ、気分に合った音楽を聴きます。


ストレスフリーと唱えている方は多いです。しかし、その言葉の裏にはストレスフリーに「なりたい」願望が隠されているのだと思います。

ストレスには善玉も悪玉もあります。ストレスは必要なのです。本当にストレスがなかったのならその方は恐らく大変に迷惑な方か、鈍感なのかも知れません。

クライエントさんとはセラピーを通じて色々な遊びをします(アクスラインの遊戯療法を参照に)。

先日は「水中ノアの箱舟」アズノール編という方法を一緒に考えました。


上の作品は当然クライエントさんの作品ではありませんが、楽しかったのでひとりでやってみました。残酷と思われるかもしれないこのようなセラピーも、実際に自分や他者を傷つけてしまう行為やストレスを周囲に撒き散らすよりはずっと健全なのではないでしょうか。

ストレスよ〜どんと来い!といきたいものですね!

お読みいただきありがとうございます。気温差が激しい季節です。どうぞご自愛ください。

 

 

 

 

 

ぴんく…あか…なおった…

こんにちは、気づけばみどりがまっ盛りです。夜になるとカエルの鳴き声も聴こえてきます。

ゴールデンウィークはお出かけや帰省をされる方も多いかも知れません。私は一足早く研修の合間に緑を眺める機会に恵まれました。

雨に濡れた緑の心地良いしっとりさが研修の疲れも溶かしてくれうような気持ちになりました。葉っぱは朝露に濡れてにキラキラと光っています。カタツムリがぴったりという感じです。

以前、クライエントさんと絵の具やうがい薬が水に溶ける過程をひたすら眺めるというセッションを行いました。これがなんとも癒されるのです。色々な色で試しました。そんな中でもクライエントさんは赤が溶けていく時と青が消えていく瞬間を楽しまれておりました。

溶かす量によって色の濃さ変わり、「今日はこの位」の気分と表現していただいたりしながら「こんなに濃いのですか」「それはそれは。この濃さが意味する気分とは?」…という感じです。ある日、彼女は赤を用いました。「私にとっては」赤というと危険のサインだったり、血液の象徴だったり、還暦だったり、活力の意味だったりするのですが、「彼女にとって」意味は異なるかもしれません。「赤を溶かして薄めてあげたい。痛いでしょう?赤は…」(痛い…)「うん。小さい時から私は赤だったから」(私は…赤だった?)「うん、だからねぇ。お水で大丈夫してあげてるの」(なるほど)あとで記録して内省してみます。

あか…いたい…おみずでだいじょうぶしてあげるの…。あお…きれい…おそらのおく…。ぴんく…あか…なおった…やさしいの。

ふむふむ、なるほどとお聴きして最後に2人透明の儀式(「絵の具さんありがとうございました」といって洗面台に使用した物品を流します)

このようなセッションを通じて心理士になって本当に良かったと感じることが如何に多いことでしょうか。

しかし、その弊害も時々出現します。モーツァルトのソナタを何気なく聴いていたら突然「ぴんく…あか…なおった…やさしい」というメッセージが言語を超えてその方ごとありありと心に侵入してきたのです。一瞬にして涙でぐしゃぐしゃになり…危険なので車を止めてひとり涙していました。

それを同業者に話したところ、やはり私はクライエントさんの世界に引き込まれ過ぎてしまう傾向があること、そもそも「小澤さんがその方にとって赤になってるリスクはないのぉ?何だよ〜モーツァルトで急に泣くとか。疲れてんじゃないのぉ。ちゃんとSv行きなさい」とごもっともなご意見をいただきました。

確かに、そうかも知れません。そう言われても、なんだか心地良い自分がいることやぴんくを教わった歓びのほうが私の中でははるかに大きいという頑固な「私」もいるのです!

ぴんくさん!ばんざい!

お読みいただきありがとうございます。みなさまにとって素晴らしい休暇になりますように!