こんにちは、いよいよお盆ですね。帰省中の方、お仕事の方、ご自宅でごゆっくり
お過ごしの方…みなさまそれぞれだと思います。
今日は北陸からの移動の途中で京都で友人に会ってランチをいただいてこれから東京に帰ります。
お茶の花火?水中花みたいなお茶を頼みました。初めは葉っぱだけで閉じているのですがみるみるうちにポットの中で開花です。移りゆく視覚がキレイで驚きました!その名も“over the rainbow”ネーミングからして素晴らしい。
私はピンポイントで北陸と新宿にしかいないので、京都に立ち寄れて同業者以外の友人とお話出来ただけで本当にこころが満たされました。
今日は「松」pineについて考えて見たいと思います。松というと盆栽のイメージだったり、防風林のイメージだったり、松ぼっくりのイメージだったり…。松葉は二股に別れて尖っていて、子どものころはイタズラでチクチクして遊んだりしていました。
常緑樹のため冬でも緑のままでいてくれるだけでなんだか感謝です。
北陸のマンションの下は松原が広がっております。海の近くの松原は夏への入り口のようです。
英語にすると松はpine treeです。pine単独ではなくpine forになると、焦がれるとか、〜を思って苦しむという意味になります。 pine awayになると悲しみのために活気を失ったなどの意味になります。exhaustのような意味でしょうか…。
チクチクの葉っぱでいつも緑レンジャー。松の葉はチクチクで自分を守っているのでしょうか。松の葉のチクチクの中には松脂などの多くのお宝が眠っている気がします。ひとのこころに例えてみると、チクチクで精一杯守っている方のこころの真核に触れ合うまでにはカウンセラーにもチクチクの痛みとその奥の繊細なこころに向き合うための敏感なこころが必要だと考えています。
ハリネズミのジレンマですね…。暖めあおうとしても2人ともにそれぞれのハリハリがあります。
チクチクにやられてpine awayになってしまうこともありますよね。
ご自身のチクチクのなかにある脆弱性を人に見せることは恥ずかしい辛い作業かもしれえません。原始的な防衛機制は逃避や否認や投影性同一視です。その状態にあるひとは、誰かのせいにしたり、なかったことにしたりすることでやり過ごしています。松の葉のチクチクにカウンセラーがずかずかと入らせていただくことは失礼千万なのかもしれません。そのような方に直面化を促すとハリハリ攻撃によってpine awayの刑に処されます。でも、カウンセリングの中で次第に信頼関係が構築され、クライエントさんのチクチクの中の真核に入れていただけた時にはそこからカウンセリングが一気に進むこともあります。その一方で難しいのは柳のような木です。春にはには目に優しくたなびきます。そのたなびきの中は風でさえもするりとかわします。そう、柳の真核に迫ることは松よりもずっと大変で翼を持った木のように鳥みたいにふわりとさらりと飛んでいきます。ハリハリとは別な意味で難しいのです。柳タイプの方との3次元でのカウンセリングほど難しいものはありません。
人のこころと木を一緒にはできないけれど、松のことを考えていたら思考がこんな風に流れて行きました。
ピアノも鉛筆も木を使用しています。出来上がった製品は「モノ」かもしれません。カウンセリングも「関係というモノ」かもしれません。作るのも弾くのも関係を作るのも人間です。先日私の大事にしているピアノをエンピツの後ろを使って弾いた方がいました。私の指がピアノに向かないと嘆いていたので、エンピツでもこんなに弾けるとお伝えしたかったのかも知れない…ピアノはその方にとって単なるone of productsだと考えて?他意はないのかもしれません。でも、私はその行動にとても傷つきました。私のピアノは“unique one”なのです。ピアノが上手い・技術が優秀なこと「優しい音」と「こころの優しさ」は別ものなんだと思うと悲しくなりました。別のエピソードをもうひとつ、お邪魔したクリニックで若手Dr.の机の上に座り足をブラブラさせた「非常に優秀な」Dr.がいました。医師にとって机は聖域です。「御机」ということばがあるように、大変失礼な行為です。机に座られた若手Dr.は非常に優秀なDr.に大変失望しておりました。でも、机に座った優秀なDr.に悪気はなかったと思うのです。ただ椅子が足りなかったからなのかも…。
自分がされて嫌なことは人にもしないことって重要だけど、嫌なことのベクトルは人によって異なるので模索することってとても大変なことですね。人間性は言語よりも行動や態度に出てしまうことがあります。ひとは誰でもみな疲れている時もあるし、余裕がないこともあります。ひとりの時に100回ため息をついたり、大きな声で歌ったり、少しだらしない側面があっても大あくびをしてもほとんど問題ありません。ただ目の前に人がいる時にはちと気をつけた方が良いなと自分自身も内省しました。
松のお話から大分飛躍しましたが、私は、優しいこころと優しい手と優しい音を統合出来るようになりたいと考えています。優しい手でも音でもこころが伴わない無粋な手であることがわかったなら私は嫌いです。私の課題はこころ由来の優しい手であり優しい音です。病院である看護師さんの手技を見ていました。彼は患者さんの表情をしっかり見守りながらも患者さんの体位が安全に保たれるように手ではしっかり患者さんの背中を支えています。優しい手はまず、相手を思う優しいこころがあってこそ生まれるのかも…。鉛筆弾きでも良い音は出るし、他のDr.の机にあぐらをかいても…ピアノは上手だし、その医師も新患さまは何ヶ月待ちなほど人気です。腕の良さとこころは関係ないのです。私の過敏なファンタジーなのでしょう。でもそのファンタジーのセンサーは大切にしたいです。このような私のような考え方は空想否認美化傾向と考えています。あまり高次な防衛機制ではありません。
私はピアノで優しい音を表現することは出来なくても、こころスタートの優しい音が出るようになりたいし、pine away の刑にあっても私はこころについて考え続けていきたいです。そして傷ついても立ち直る力を持てる方法を模索していきたい次第です。下の形状記憶メガネ拭きのように…pine away の刑から学び優しさと愛を100倍に蓄えて復活するにはどうしたらよいのでしょうか。立ち直りの力・こころの回復力を心理用語ではレジリエンスresilienceといいます。耐久性と訳す方もいるのですが、私はレジリエンスをこころのバネやしなやかさだと考えているので、耐久性という訳語は好きではありません。resilienceの反対用語は脆弱性vulnerabilityといいます。脆弱と訊くとネガティブに思われるかも知れませんが、私は脆弱性の中にこそ優しさが根を張っていると考えております。脆弱で繊細なこころから優しさは芽生えるのではないでしょうか。
お盆を迎えてもまだまだ暑い日が続きます。どうぞ、ご自愛ください。
長文をお読みいただきありがとうございます。